2016年7月17日日曜日

ロシア買い付けの旅☆~アレクサンドロフ①

同い年と言うこともあってなんだかウマのあう
ラリサ・バビロワさんと今回も一日小旅行をしてきました!
(前回のアブラムツェヴォ小旅行はこちら
2016年2月4日付けパルクのブログより

今回はセルギエフ・ポサードから
各駅停車の電車に乗って30分ほど、
ウラジーミル州アレクサンドロフという町へ。
事前にラリサさんから「アレクサンドロフに行ってみない?」と
聞いたときは「どこ?」って感じだったのですが
これまた色々な発見のある楽しい遠足になりました。

アレクサンドロフというのはなんとイワン四世の時代に
17年ほどの期間モスクワ公国の首都だった町。
信仰心の篤い父、ワシリー三世の時代から
ロシア正教の中心地セルギエフ・ポサードへの
巡礼の際に立ち寄る休憩地として栄え、
4つの教会を中心とした建築群を整備し
1513年にはモスクワ公国の公邸の一つとなりました。
ワシリー三世の死去に伴い3歳で大公となるイワン四世も
父に倣い信仰深く何度と巡礼の旅を行い
その度にアレクサンドロフに立ち寄っていました。
幼くして大公となった後、貴族たちとの権力争いや
近隣諸国との長引く争いに明け暮れ
最愛の妻を失ってからは一層人間不信に陥ります。
1564年、家族と巡礼に出かけるとモスクワに戻らず
そのままアレクサンドロフに隠遁するように暮らし始め
1581年に後継者の次男が亡くなるまで
実質的なモスクワ公国の首都であったとされています。

イワン雷帝の死後しばらく忘れ去られたこの地は
17世紀中ごろ、ウスペンスキー女子修道院として整備され
かつての賑わいを取り戻します。
ロシア近代化の父、ピョートル一世とも深い関係があり
1698年に起こった「銃兵の反乱」の首謀者とされる
異母姉ソフィア・アレクセエブナはモスクワのノボデビッチ修道院へ
その妹、マルファも同罪とされアレクサンドロフの
ウスペンスキー修道院で幽閉の身となり
修道女として1708年に亡くなるまでここで過ごしました。
さらにピョートル一世の娘、後に女帝となるエリザベータも
後継者争いから1730年にアレクサンドロフに送られ
1741年にクーデターを起こし女帝の地位につくまで
ウスペンスキー修道院で過ごしました。

(アレクサンドロフ・スロボダ自然保護区博物館
公式ホームページより意訳しました)

朝早い出発だから、とラリサさんがクッキーを
焼いてきてくれました。
家で淹れた紅茶を保温ポットに入れて
何十年ぶりかの遠足気分です♪

遠足気分に盛り上がっちゃって全然写真撮ってなかった(笑)
アレクサンドロフは思った以上にちょっとした”町”で
たくさんの人がこの駅で一緒に降りました。
駅前から出ている修道院方面行きのバスに飛び乗り
20分ほど町を走り抜けるとこの町のシンボル「修道院」に到着。
ワシリー三世が創建した16世紀当時の建物が今も残る
文化遺産です。

トロイツキー大聖堂。
博物館としてはもちろん現在でも修道院として運営されている
重要な信仰の中心地です。

この鐘楼はピョートル一世の異母姉、
マルファ・アレクセエブナが幽閉されていた住まい。
中は博物館になっていて
長持ちや暖炉など、質素な暮らしぶりがうかがえます。

鐘楼を昇る階段。
いやー、ほんとね、ロストフでは一人で上った鐘楼階段。
狭くて、暗くて、ヒンヤリするし、実はけっこう怖いんです。
(歴代のアレが出てきそうで・・・)
この時はラリサさんときゃっきゃ言いながら楽しかった~♪




イワン四世の寝室。
気性もさることながらその大きな体から
雷帝と言われた皇帝のベッドにしては小さいね、
とラリサさんに聞いたら
昔の人は上体を起こして座るように寝たのよ、とのこと。

こちらはバンケットルーム。
ここで3度の結婚式の晩餐が行われたのだとか。
こじんまりとした薄暗い部屋でちょっとびっくりでしたが
モスクワから逃げるように隠遁していた住まいと思うと
さもありなん、という感じですね。

イワン雷帝には多くの謎や逸話が多く
今でも新事実や新解釈の研究が進み
そのイメージが変化し始めているそうです。
特に「息子殺し」については有名なエピソードですが
息子のイワンの遺骸を解剖した結果
病死したことが分かっています。
当時、大きな権力を持っていた貴族に敵対した雷帝。
死後、苦々しく思っていた貴族たちが作り上げた
悪評も多いのでは、と考えられているのだそうです。
・・・と、ラリサさんが言ってました。